そ っ と









まるで深い湖の底から這い上がる様に重い意識を押し上げて、夢路はゆるゆると瞼を開いた。
目の前に広がるのは見慣れた自室の天井。
しかし朝眠りから覚めた時特有の気だるさとは違う、指一本さえ動かすのが苦痛な程の極度の疲労感は尋常でなく、はたして眠りに就く前、自分の身に何が起こったのかと、鈍った思考を巡らせる。
すると脳裏に断片的に蘇る、水の大妖との闘い。
ようやく事の顛末を思い出した夢路は、苦しげな溜息を漏らすと瞼を閉じた。
自らの胸の内、今にも暴れ出そうと蠢く大きな水の力を感じる。
戦いで力を使い果たした所に多量の妖力を取り込んだ所為で、押さえが利かず体が悲鳴を上げているのだろう。
消耗した力を回復し、取り込んだ力を馴染ませるには、もう少し体を休めるしかないようだ。
仕方なくもう一度意識を沈めようとした所で、ふとすぐ側に気配を感じ、夢路は再び瞼を押し開けた。
気だるげに視線をめぐらせ、その先に見つけたのは。


なんでこんな所で寝てるんだよ


布団の傍ら、くず折れる様にして眠る妖ノ宮に、心の中で問いかける。
だが妖ノ宮は夢路が目覚めた事にも気付かぬ様で、こんこんと眠っている。
夢路が倒れる様に眠りに就いてから、ずっとそばに居たのだろうか。
その寝顔に、銀朱が戦いの最中模った姿を思い出す    自分の大切な者を模ったのだというその姿を。
妖ノ宮を見つめる夢路の瞳の奥で、複雑な感情が揺らめく。
やがて、夢路は躊躇いがちに重い腕を伸ばすと、そっと、その頭に触れた。
しっとりとした絹糸の様なその手触りと、人のぬくもり。
それが思いの外心地良くて、夢路は更に求める様に、ゆるゆるとその髪を撫でる。
指一本動かすのさえ億劫だというのに、なぜこんな事をしているのか、とか。
知らず口元が緩んでいる訳も。
鈍った思考で考えるのは億劫で、夢路はただ心の赴くまま手を動かし、そしていつしか眠りに落ちていった。




次に目を覚ました時、体はすっかり本調子を取り戻していた。
ゆっくりと半身を起すと、眠りすぎた時特有の気だるさはあるが、体が鉛でできている様な、あの重苦しさはすっかり抜けている。
夢路は乱れた髪をかき上げ、ちらりと傍らに視線を向けるが、そこには誰もいない。
       あれは幻だったのだろうか。
なぜか感じた心の揺らめきを無視して、夢路は枕元に用意された着物に着替えると、部屋を後にした。


夢路の足は、知らず邸の奥へと続く長い廊下へと向いていた。
煩わしいからとそうした筈なのに、いつの間にか足しげく通う様になっていた場所。
「もういいんですかい、夢路様」
途中、声を掛けてきた夜の森の存在など何時もの様に無視して、夢路は何事もなかったかの様に歩みを進めていく。夜の森の方も夢路のそんな対応には慣れたもので、特に気にせずそのまま行こうとしたが、主の向う先に気づいて足を止めた。
「妖ノ宮なら寝てますよ」
どうせ先程の様に無視されるものだと思ったが、意外にもその言葉に夢路はピタリと足を止めた。
「こんな時間からか」
鋭い眼差しで問われ、仮面の下を冷や汗が伝う。
「えっ、ええ。……ずっと夢路様の看病をしてたから、疲れてるんじゃないですか」
その言葉に夢路はわずかに目を細め、やがて興味を失った様に夜の森から視線を外すと再び歩き出した。


そして辿り着いた、最奥の一室。
夢路は襖に手を掛け、珍しく逡巡した後、音を立てぬ様、そっと、引き開けた。
部屋を見渡すと、夜の森の言っていた通り、妖ノ宮は文机に身を預けて眠っていた。
夢路は足音を立てぬ様に側に寄り、その傍らに膝をつくと、その寝顔を眺める。
少し疲れた顔をしているだろうか。
夢路は手を伸ばし、あの時と同じ様に、そっと、その頭を撫でた。
掌に残っているのと同じ感触。胸の内に湧き上がる暖かなものも。
「おい、いつまで寝てるつもりだ」
夢路は妖ノ宮の髪を梳きながら呟く。
だが言葉とは裏腹に、その声は彼女の眠りを守ろうとする様に、そっと優しい。
「さっさと起きて、その目で僕を見ろ。僕の名を呼べよ」


夢路がどんな眼差しで自分を見ているかなど知らぬまま、妖ノ宮は眠り続ける。







2010/01/05