Only you...
声が聞こえた気がした。
ヴェルナーは本を繰る手を止める。
唯一の音の発生源だった紙のすれる音が消えて、店の中はしんと静まり返っている。
店内には誰もいない。
窓がなく、外界との唯一の接点である扉も階下にしかないため、この店は扉を開くまで外の喧騒とは無縁になる。
昼間でも薄暗い店内には、ただ古(いにしえ)の品々の吐息だけが満ちている。
少し湿ったひんやりした空気と、心地よい静寂がそこに、ある、だけ。
声など聞こえるはずもない。
それでも耳は聞こえないはずの声を拾う。
しかし拾えるのは彼女の声だけだ。
ヴェルナーはささやきを邪魔しないようにそっと息をつく。
そして読んでいた本を閉じて脇によけると、机の上に突っ伏した。
そっと目を閉じる。
すると彼女の走る姿が目に浮かぶ。
数年前からここに住み始めた彼女は、今では町の人気者だ。
通り過ぎる彼女に、町の人々が次々と声をかけてくる。
彼女はそれに、くったくのない笑顔で答える。
でもなるべく走る足は止めない。
「何急いでるんだ?」
ヴェルナーは脳裏の彼女に語りかける。
もちろん答えはなく、彼女は軽い足取りで職人通りの坂を一気に駆け上がる。
坂の上にある果物を並べた雑貨屋の手前で横道にそれ、そっけない看板があるだけの扉の前で立ち止まった。
その前で乱れた息を整えるように胸に手を当てて、大きく息を吸い込む。
そして大きくひとつうなづくと、一気に扉を引き開けた。
その時オーバーラップするように、1階の扉がいささか乱暴に開けられる音がした。
ヴェルナーは目を開く。
トントントンと元気のいい足音が、階段を駆け上がってくる。
聞きなれた足音だ。
ヴェルナーは体を起こして両肘を突いた上に顎を乗せると、階段を見つめる。
しかし、それではいかにも待っていたという感じなので、ヴェルナーは片肘をはずして明後日の方を向いてみる。
それでも目線だけは態度を裏切り、横目でやっぱり階段を見てしまうのだが。
その間にも足音は近づいてきて。
「ヴェーールナーっ!」
職人通りで最も愛される少女が、満面の笑みで現れる。
ヴェルナーは少女を前にまたしても本人の意思を裏切り、最上級の笑みを浮かべてしまう己を恨めしく思う。
−まぁ、惚れた弱みってやつか・・・。
「よぉ、何の用だ?」
精一杯の強がりで、口調だけはいつものようにそっけなくなるよう努力しつつ、ヴェルナーは彼の最も愛する少女を迎えた。
2001/08/09
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