祈 り


なぜこんな事になってしまったのか・・・!
何度も何度も繰り返した問い。
もしもあの時、あんなことをしなければ―――
湧き上がるのは、ただ、後悔ばかりで。
それでも。いくら悔いても、時間は巻き戻らなくて。
錬金術をもってしても、時を戻すことだけはかなわなくて。
なんて自分は無力なのか!
嘆いてみても、現実は動かしがたく・・・。
今はただ、祈ることしかできない―――



質素だが歴史の重み感じさせる造りの部屋の窓際に、簡素なベッドが置かれている。
窓の外は夜の闇に包まれ、新月の今宵は月明かりさえも、ない。
光源はベッドサイドに置かれた小さな燭台のみ。
ほのかな明かりが、ベットに横たわる端正な顔を浮かび上がらせる。
上気した頬。額から流れ落ちる汗。
いつもへーベル湖のように静かで深い色をたたえた双眸は、きつく閉じられたまま。
苦しいのか時々眉間に皺を寄せ、力なく頭を振る。
「ウルリッヒ様・・・」
リリーはウルリッヒの額の汗をぬぐうと、桶の冷水に浸した布を絞って額に乗せる。
もう何度、額の布を取り替えただろう。
その双眸が閉じられたまま、もう何日たったことだろう。
あと何日たてば、あの穏やかな笑顔を見られるのだろう。
いつになればあの魅惑的な声で自分の名前を呼んでくれるのだろう。
そんな日がいつ・・・。
もう・・・?
すでに赤く腫れ上がったリリーの双眸から、再び涙が溢れ出す。
しかしリリーはすぐにそれを手で荒っぽく拭い去った。
泣いている場合ではないのだ。
確かに泣いていれば、一時的にとはいえ、自分の気持ちは治まるのかもしれない。
でも好奇心に負けてウルリッヒの忠告を無視し、ティーフの森に踏み込んだのは自分。
エルフの毒矢からリリーを庇い、ウルリッヒを生死の境に彷徨わせてしまったのも自分。
自分のせいで大切な人を命の危険にさらしてしまった・・・。
そんな自分に泣く資格などない。
楽な道に逃げる資格などないのだ。

ふと、燭台の傍らに置かれたビンが目にとまる。
アルテナ聖書に載っていたリーク解毒剤。
リーク毒を唯一中和できるというその薬を、不眠不休で作り上げた。
初めて作った薬。
リーク毒はエルフにしか作ることができず、その解毒剤に実際に効力があるのか試すことができなかった。
それでも助けるにはその薬を使うしかなくて、効くと信じてウルリッヒに投与した。
あれから3日。
まだ熱は下がらず、意識も戻らない。
薬の調合に失敗したのだろうか。
そもそもアルテナ聖書に書かれていること自体、本当なのだろうか。
だが、今のリリーにはそれを確かめるすべはなく、ただ薬が効くように、ウルリッヒの命が助かるように、祈る事しかできない。
リリーはもう一度ぐいっと涙をぬぐうと、静かに立ち上がる。
そして部屋を後にした。



ギギッっと扉のきしむ音が響き渡る。
薄闇に沈み、静まり返った礼拝堂。
昼間の親しみやすい雰囲気とはまったく違い、すべての物を断罪するような冴え冴えとした空気と、すべてを飲み込むような濃い闇がたゆたう。
リリーはそこに足を踏み入れると、礼拝用の椅子に腰をおろし、机の上で両手を組んで額を乗せる。
そして、ひたすらに、祈る。

今まで神様なんて信じていなかった。
ケントニスはあまりそういう習慣はなかったし、自分自身必要とも思わなかった。
フローベル教会に来ても、ただなんとなくお祈りしていただけ。
本当に敬虔な気持ちなどもっていなかった。
それなのにこういう時だけ神にすがる自分はずるいと思う。
自分勝手なのもわかっている。
それでも!
もう、それだけしかできないから。
変わりにこの命をささげてもいいから。
心が張り裂けるような思いをこめて、切に願う・・・。

神様、お願いです。
あの人を助けてください―――



その時、ギギッと扉の開く音が響く。
リリーがギクシャクと顔をあげると、燭台を持ったクルトがリリーの前に佇んでいる。
「あまり思いつめると、あなたまで倒れてしまいますよ」
クルトのやさしい微笑みに、泣いてはいけないと思っていても、ポロポロと涙があふれてくる。
「クルトさん、ごめんなさい。・・・あたし、ずるい・・・」
リリーはもうあふれる涙を止めることができない。
神様なんか信じていないのに・・・。
ウルリッヒ様を危険な目にあわせて・・・。
自分勝手で。
やさしくされる資格なんてないのに・・・。
それでもすがってしまう。
「神は信ずる者を助く・・・といいます」
クルトの穏やかな声が礼拝堂に、そしてリリーの心に響く。
それはまるで神様の声のようで、リリーの心を包み込んでいく。
「神の愛は無限なのですよ」
クルトは胸の前で十字を切ってから、口に出すと少し陳腐ですね、と言って笑う。
涙を流しながらも、リリーもつられて笑ってしまう。
すると少し思いつめていた気持ちが、少しづつ晴れてゆくのを感じる。
「辛い事に向き合うことも大事ですが、だからといって自らを貶めてはいけません。
暗い闇に沈んでしまっては、神の救いの手も見えなくなってしまいますから」

クルトはリリーの側に燭台を置くと、無理をしないようにと言い置いて、礼拝堂を後にする。
自分の心と同じように真っ暗な礼拝堂に燈った、わずかな明かり。
それはまるで神の手のように暖かくて。
リリーはその手をきちんと捕まえられるように。見逃さないように。
もう心に迷いはなく。・・・ただ一心に、いのる。



―――やがて夜が明け、礼拝堂のステンドグラスから明るい光が差し込む。
「リリーさん!ウルリッヒ殿が・・・」

リリーは反射的に立ち上がると、ウルリッヒのいる部屋を目指して走り出す。
ずっと座り続けていた為か、手足はこわばって思うように動かない。
もどかしい手足を必死で動かして、廊下を走る。
ようやく部屋の前までたどり着くと、一気にドアをひきあけた。

簡素なベットには明るい日差しが差し込み、ベッドの中の人物がこちらを見つめている。
いつもと同じへーベル湖のように静かで深い色をたたえた瞳。
「リリー」
長期間熱に浮かされていた為少しかすれた声が、名前を呼ぶ。
「ウルリッヒ様・・・」
リリーの瞳から涙があふれる。
それは今までの涙と違い、暖かい涙で・・・。
リリーはベッドサイドまで駆け寄ると、その手を取って床に座り込む。


あぁ、神様、―――感謝します・・・。



2001/08/22