||| 眠れる草原のシスター |||
すべては偶然ではなく必然と言うけれど、これもまた必然なのだろうか。
その日たまたま少し離れた村まで出向いたオズインは、帰り道、ふと何かに呼ばれたように馬の足を止めた。
街中から離れた道の両側には、見渡す限りの草原が続いており、そこには今を盛りとばかり、白詰め草の花が咲き乱れている。
普段花などに興味がないオズインだが、その光景に思わず表情を緩める。
ここの所仕事が立て込んでいて、疲れが溜まっているという自覚はある。
緑は安らぎを与えてくれるというから、そのせいなのかもしれない。
暫しの癒しを求めるように、草原を眺めていたオズインは、ふと違和感を覚えてある一点で目を止めた。
緑の草原に、白く咲き乱れる花。
それが集まっているにしても、あの一角だけ白すぎるのではないだろうか。
目を眇めたオズインは、それが人影であると確信する。
こんな所で酔狂にも昼寝をしている者がいるとも思えない。
ならば病か何かで倒れているのか、もしくは屍、という事もある。
こういう街道沿いには、旅人を狙う山賊が今だ蔓延っているのだ。
その中には物を奪うだけでは飽きたらず、命まで奪う者もいて、この辺りでもたまに打ち捨てられた屍が発見される事がある。
いずれにしても、放置しておくわけにはいかない。
オズインは愛馬にここで待っているように告げて、足早にそこへ近寄っていく。
近づくにつれ、体格などからそれが女性のものであると知れる。
後者でない事を祈りつつ、更に歩みを進めていったオズインは、その姿を確認できる距離まで近づくと、急に足を緩めた。途端に纏っていた緊張感は脱力感へと変わり、その顔には苦虫を噛み潰したような表情が浮かぶ。
長々と目の前に横たわるのは、前者でも後者でもなかったのだ。
言うなれば更にその前者。
オズインがそっと覗き込むと、セーラは二つに分けて結んだ髪を羽根のように広げて、白詰め草の褥で、すやすやと心地よさそうに寝息を立てていた。
決してありえないと思っていた選択肢の具現化に、オズインは思わず額を押さえる。
なぜこんな所で・・・という疑問は持つだけ無駄なのだろう。
自分は彼女の不可解な言動を理解できた試しがないのだから、どうせ今回も理解できはしないのだ。もういいかげん考えるだけ無駄だと学習している。
だが理由はいいとして、こんな所にうら若い乙女が一人で寝ているのは、いかにも無用心であると言える。
「セーラ・・・」
起きなさいと続けようとして、オズインは思わず口を噤んだ。
その寝顔があまりに幸せそうで、それを妨げるのは躊躇われたのだ。
だがこのままここに残していくわけにもいかない。
散々迷った挙句、オズインは仕方なさそうにセーラの隣に腰を下ろした。
こうなればセーラが起きるのを待つしかないのだろう。
いつから寝ているのかわからない以上、いつ目覚めるのか予想もつかないが、オズインとしてはなるべく早く彼女が目覚めてくれるよう祈るしかない。
小さなため息と共に今しがたやってきた方に目を向ければ、その先で彼の馬がのんびりと草を食んでいる。それを見て幾分気持ちの和んだオズインは、これは働きすぎの彼に神が暫しの休暇を与えてくれたのだと思うことにする。
しばらくは彼方まで続く草原や、白い雲の浮かぶ空を眺めていたが、元々のんびりと過ごす事に慣れていないオズインは、すぐに手持ち無沙汰になってしまう。
こんな事なら書類を持ってくるのだったと考えて、それでは意味がないと苦笑する。自分という人間はよっぽど仕事に毒されているらしい。
退屈そうに視線をさ迷わせていたオズインは、ふとセーラの胸の上に置かれた本に目を止めた。きっとこの本を読んでいるうちに、眠くなってしまったのだろう。
このかしましい少女が読む本とはどんなものなのだろう。
オズインはふと興味を引かれて、セーラを起こさないようにその手の下から本をそっと抜き取る。
ぱらぱらと捲ってみると、それは有名な童話だった。
荊に包まれた城で魔女の呪いによって眠りについている姫を、王子がキスで目覚めさせるという、少女なら誰でも胸をときめかせるだろう、そんな話。
こんな本を読んで喜ぶなんて、かわいらしい所もあるものだと、オズインは傍らで気持ち良さそうに眠るセーラを見下ろす。
そしてその時ふと思いついた考えに、顔をしかめた。
白詰め草の褥に眠るセーラは、この童話に出てくる姫のようではないか。
ならば自分がキスをすれば、セーラは目覚めるのではないだろうか、と。
そんな考えを一瞬でも持った自分のロマンチストぶりに、自ら鼻白む。
自分は王子でもなければ、恋人になるにも些か年が離れすぎている。
例えセーラが童話のようにキスで目覚めるとしても、その相手は自分ではなく、もっと年若い誰かだろう。
そう思うのに、一度浮かんだ考えというのは、早々消えるものではない。
先ほど見た、誘うように僅かに開いたセーラの唇が頭から離れない。
いい年をして、これでは十代の少年のようではないか。
苦笑をもらしながらもオズインは誘惑に抗えず、傍らに咲く花にそっと唇を寄せた。
僅かに触れさせただけで素早く顔を離し、その様子を窺う自分に辟易する。
そんなオズインを他所に、セーラは相変わらずすやすやと心地よさそうに眠っている。
オズインは安堵と失望の混じった笑みを漏らす。
やはり偽者の王子様のキスでは、眠り姫は目覚めないらしい。
そう思っていると。
「・・・ん・・・」
心地よさそうに眠っていたセーラが、僅かに眉根を寄せる。
一瞬遅れて長い睫の下から現われた菫色の瞳が、そこにオズインの姿を認めて、嬉しそうに細められた。
「オズイン様・・・」
無防備な笑顔にオズインの心臓がどくりと跳ねる。
「今、夢をみていたんです。オズイン様が寝ている私を、キスで起こしてくれるんですよ」
先ほどの状況をそのまま説明する言葉に、もしや起きていたのかとオズインが戦々恐々としていると、セーラは夢の内容を思い出しているのか、目を閉じてうっとりと微笑んでいる。どうやら本当に夢の話をしているらしい。
オズインは心の中で胸を撫で下ろし、まだ手の中にあった本の事を思い出す。
すべてはこの本の影響。
つまりはそういう事なのだろう。
長く語り伝えられる話には、ある種魔力が宿っているのかもしれないなどと、埒のない事を思う。どうも慣れない休息は突拍子のない想像ばかり生むようだ。
オズインはそれらを振り払うように立ち上がる。
「さあ、そろそろ日も傾いてくる。城に戻るぞ」
だが、待てど暮らせどセーラは寝転がったまま一向に動こうとしない。
「セーラ?」
「オズイン様がキスしてくれたら起きます」
セーラは片目だけ開けてそう告げると、再び目を閉じる。
どうやら眠り姫を気取っているらしい。
「君はもうとっくに起きているだろう」
オズインがため息混じりに告げると、セーラはぱちりと目を開けて頬を膨らませる。
「もう、オズイン様にはデリカシーもロマンチシズムも何もないんだから」
文句をいいながら半身を起こすセーラに、オズインは表情を和ませると手を差し出した。セーラは驚いたようにその手とオズインの顔を交互に見比べると、さっきまでの怒りは何処へやら、弾けるように笑ってその手を両手で掴む。
オズインはその羽根のように軽い身体を、軽々と引っ張り起こすと、手を掴んだまま歩き出した。オズインの大きな手の感触に、セーラは嬉しそうに笑みを漏らす。
セーラはオズインの前に回りこむと、後ろ向きに歩きながら嬉しそうに彼の顔を見上げる。
「オズイン様、もしかして私の寝顔にときめいちゃいました?」
小首を傾げるセーラに、オズインは珍しくやさしい視線を向ける。
「あぁ、そうだな」
当然否定の言葉が返ってくるものとばかり思っていたセーラは、予想外の答えに目を見開いて足を止める。
同じく足を止めたオズインは笑みを漏らすと、手に持っていた本でこつりとセーラの額を叩いた。
「眠り姫に一目惚れだ」
セーラがその本を受け取ると、オズインは再びすたすたと歩き始める。
その後姿と手の中の本と。
セーラはそれらを交互に見比べて、小首を傾げる。
今の言葉は本の内容のことを言っているのか、それとも・・・。
セーラは口元を本で隠して暫し悩んだが、やがてにっこりと笑う。
彼女は驚くほどのポジティブ思考なのだ。
「待ってください、オズイン様〜」
セーラはオズインに駆け寄ると、その腕に自分の両手を絡める。
それを咎められないのを確認すると、セーラは猫のようにその身を摺り寄せた。
「オズイン様は知っていましたか?眠り姫は王子様にキスされて目覚める前から、ずっとずっと王子様の事を好きだったんですよ」
キラキラとした瞳で見上げるセーラの笑顔を眩しそうに見つめて、オズインは口元を緩める。
「ああ、知っていたさ」
だからキスせずにはいられなかったのだ。
物語の中の王子も。・・・そして自分も。
オズインの返事に気を良くしたセーラは、ついでにとっておきの真実もお披露目する事にする。
「じゃあ、これも知っていましたか?眠り姫も知っていたんですよ。王子様が自分の事を好きだって。だからずっと寝たふりをして、キスしてくれるのを待っていたんです」
突然投げつけられた爆弾に、オズインは思わず足を止めた。
それは童話の事を言っているのか、それとも・・・。
恐る恐るセーラの顔を見たオズインは、その猫のようにきゅっと細められた瞳に真実を見つけて、思わず天を仰いだ。
自らがとんでもない過ちを犯したのだと、今更ながらに気付いた気がした。
2005/01/31
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