||| 恋のダンス |||
「レナック、こんな所にいましたのね。やっと見つけましたわ」
背後から嬉々と声をかけられて、レナックはびくりと肩を震わせた。
この声の主が誰かなど、わざわざ振り返るまでもない。
ろくな賃金も払わず、そのくせ厄介ごとばかり持ち込む、自己中心的雇い主。
彼女がこんな風に機嫌良く声をかけてくる時は、大抵ろくな話ではない。
正直な所、このまま逃げ出してしまいたかったが、そんな事をしても結局は無駄なのだと身に染みて解っているので、レナックは仕方なく振り返った。
「なんですか、ラーチェル様」
「あなたに頼みがあるんですの」
ににこにこと微笑むラーチェルに、覚悟を決めていたはずだというのに、足が勝手に一歩後ずさる。
あぁ、やっぱりこの顔はろくな事じゃないぞ、と心の中で警鐘が鳴るのを聞きながら、生贄にされる子羊の気分で続く言葉を待っていると。
「少しダンスの練習の相手をしてくださらないこと」
「はぁ?」
どんな頼みが飛び出すのかと戦々恐々としていたレナックは、予想外に普通の頼みに、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「何か文句でもありまして?」
それを不服と取ったのかギロリと睨むラーチェルに、レナックは慌てて首を振った。
「いえ、別にいいですが。でもラーチェル様なら、今更練習する必要なんてないんじゃありませんか?」
まさか珍しくまともな頼みなので驚いた、などと言えるはずがないので、とりあえず当り障りのないことを口にしておく。
するとラーチェルは気を良くしたのか、目を細めてついと顎を反らした。
「当たり前ですわ。わたくしのダンスの腕前は先生も一目置くほどなのですから。ただ明日は久々の舞踏会なので、少し体を慣らしておきたいだけですわ」
わたくしがするように言ってるのですから、つべこべ言わずに相手をなさいと言い放つラーチェルに、レナックはひっそりとため息を漏らした。
ラーチェルは一度言い出したら、場所やこっちの都合などお構いなしなのだ。
だからここが廊下だとか、自分にも都合があるとか言った所で無駄な訳で。
ならばここは抵抗するより、さっさと満足させてお帰り頂く方が賢明というもの。
「はいはい、解りましたよ。・・・ではどうぞ」
レナックは彼女の前に恭しく手を差し出した。
ラーチェルはそれに自分の手を重ねて歩み寄る。
二人は自然に呼吸を合わせると、同時に足を踏み出した。
そうして淀みなく軽やかに踊る様は、ここが音楽すら流れていない、ただの廊下である事を忘れさせてしまう程だ。
だから、優雅にダンスを踊るラーチェルが、よもやまったく別の事を考えているなどとは、誰も――その相手をしているレナックですら、思いはしないだろう。
そもそも舞踏会の為の体慣らしなどというのは、口実でしかない。
レナックにダンスの相手を頼んだのは、どうしても確かめたい事があったから。
ずっとわかっていながらも、そんなはずはないと心の中で否定してきた事。
だがそれは今、こうして踊ってみることで、確固たる事実としてラーチェルの中で確立してしまったのだ。
どんなに否定した所で、身体は正直で。
身を預けた瞬間、熱に浮かされたように整合性のなくなる思考と火照る頬。
踊る前から激しいリズムを刻む鼓動。
それらの意味する所は、もう否定する余地もないほどに明白。
だがそれは、とてもではないが容易には受け入れ難い事実であり。
そして受け入れた所でどう対処してよいかわからないそれを前に、ラーチェルは戸惑うように下唇を噛んで顔を俯けた。
するとそれに気付いたレナックが、ラーチェルの様子を窺うように顔を近づける。
途端に鼓動が跳ね上がって、ぐらりと視界が揺れる。
「ラーチェル様、どうかしましたか」
「な、何でもありませんわ。その・・・そんなに近寄らないでいただけます」
「ダンス中に近寄るなって言われても・・・」
ラーチェルの心中など知らないレナックは、またいつもの突飛な言動が始まったと、眉を潜めた。知らず知らずのうちにため息が漏れる。
するとそれが首筋をくすぐって、ラーチェルの背筋を何かが這い上がる。
「いいから離れなさいと・・・きゃっ!」
その感覚にパニックに陥ったラーチェルは、無理やり身体を離そうとして足を縺れさせる。ふわりとした浮遊感と共に目に飛び込む、天井から下がっているはずのシャンデリア。
そういう瞬間は時間がゆっくり流れるというが、それは本当のようで、妙に冷静に自分がバランスを崩したのだと理解し、次に訪れるだろう衝撃を覚悟する。
だがそれが訪れる前に、腰の辺りに圧力がかかって、浮遊感が消失する。
咄嗟に腰に手を回して、なんとかラーチェルの転倒を阻止したレナックは、ほっとため息を漏らした。
おかげで大理石の床で後頭部を強打する事は免れたが、今度は仰け反った体勢でレナックに上から見つめられる格好になったわけで。
一瞬忘れていた緊張感が戻ってきて、ラーチェルの頭の中にドクドクと心臓の音が鳴り響く。激しい鼓動に呼吸困難になりそうで、もう一分一秒たりともこんな体勢でいられそうにない。
「は、放しなさいっ」
「離したら頭を打つでしょうが」
「いいから離しなさいと言っているのです!」
まるで駄々っ子の様に、闇雲に手を振り回すラーチェルに、
「本当に無茶苦茶な人だな」
レナックはため息を漏らすと、少し強引にその身体を抱き寄せた。
これ以上暴れられないようにと少しきつめに抱きしめると、さっきまでの取り乱しぶりが嘘のように、ラーチェルは大人しくなる。
レナックに抱きしめられた瞬間、何かの糸が切れたようにふっと力が抜けてしまったのだ。
力の入らない身体を、その胸に預ける。
思っていたより、その肩幅は広く、胸は厚かった。
その胸の中はとても広くて暖かかった。
こうされていると相変わらず胸はドキドキして苦しいのだけど、それと同じぐらい、とても幸せで穏やかな気持ちになって、ラーチェルはその心地よさにうっとりと目を伏せる。
―――その暖かさに思考まで溶かされて、息をするのさえ忘れてしまう。
そして、予想外にもこの抱擁はレナックにも異変をもたらしていた。
抱き寄せたのはただ単に体勢を立て直す為。
きつめに抱きしめたのだって、暴れさせないようにする為で。
それ以外の他意は一切なかった。
懐く余地もないと思っていた。
なのになぜか、抱きしめた体の細さと柔らかさ、そして仄かに漂う甘い香りに、レナックは予想外の衝撃を受けてしまったのだ。
これまでに人並みに恋もしてきたのだから、こんなシチュエーションには免疫があるはずだというのに、なぜただの抱擁だけで、しかもこんな年下の少女に、初恋をした少年のように、うっかりときめいてしまっているのだろう。
おいおい、マジかよ。しっかりしろよ、俺。
レナックは何とか平常心を取り戻そうとしてみるが、気持ちとは裏腹に鼓動は収まる様子はなく、軽快に恋のダンスを踊っている。
それは腕の中にいるラーチェルに伝わってしまうのではないかというほど情熱的で、レナックの心の中で冷や汗を流す。
もしこんな事が彼女に知れたら、それこそ何を言われるかわかったものではない。
ならばさっさとラーチェルの身体を離してしまえば済む事なのだが、困った事に放したくないのだ。
もっとこのぬくもりを味わっていたいと、根幹の部分が告げている。
心の内で理性と本能を葛藤させつつ、とりあえずこの変化をラーチェルに気づかれていないだろうかと、そっと様子を窺ったレナックは、思わず目を見張った。
いつものラーチェルからは想像もつかない、儚げなその表情。
ぐったりと身を預けたその手はレナックの服を握り締め、伏せ目がちの瞳はわずかに潤んでいるような気がする。
それに、よくよく注意してみれば、さっきから五月蝿い位に高鳴る胸の鼓動。
それはてっきり自分の中から聞こえてくるものとばかり思っていたが、微妙にずれて、でも同じぐらい早鐘を打っているもう一つの鼓動は、重なる胸の向こう側から聞こえてくるものではないだろうか。
ラーチェルが自分に・・・!?
プライドの高い彼女に限ってそんな事があるはずはないと心の中で否定しつつも、欲望に逆らいきれず、レナックの口から言葉が零れ出る。
「ラーチェル様・・・・・・ひょっとして俺の事、意識してます?」
するとその言葉に我に帰ったのか、虚ろだったラーチェルの瞳に力が戻る。
だが、それはいつもと比べるとまったく覇気がなく。
「なっ・・・何を言っていますの。そんな事・・・あるはずっ、ありませんわ・・・」
逆にその潤んだ瞳に吸い寄せられそうになる。
「そんな事を言って、あなたの方こそ・・・わたくしの事好き、なのではありませんの」
投げかけられた言葉。
それは揶揄するような言葉の形を取っていても、願望。
見上げる瞳が、言葉のトーンが、そうあってほしいと言っている。
あぁ、とレナックは心の中でため息を漏らした。
もう降参だと、心の中で手を上げる。
「・・・ええ。逃げ出そう、逃げ出そうとしていたつもりなのに、何時の間にか掴まっていたらしいですよ」
笑ってその顔を見つめると、ラーチェルは驚いたように目を瞬いて、恥ずかしそうに目を反らす。
その何時になく内気な様子に、レナックの支配欲が頭を擡げる。
「ラーチェル様、キスしてもいいですか」
嫌ではない。
だが、いいなどとは言えるはずがなくて。
ラーチェルはそっと目を閉じた。
それを了承の証と取って、レナックはその薔薇の蕾のような唇に、自らのそれを重ねた。最初は一瞬触れただけで放すと、もう一度唇を押し当てる。
だか何故だか美しい蕾に分け入るのは躊躇われて、だが離す事も出来なくて、長々と触れるだけの口付けを交わす。
暫くして名残惜しげに唇を離すと、ラーチェルがうっとりと潤んだ瞳で見上げてくる。
その様子がなんともかわいらしくて、レナックは笑みを漏らした。
―――だが、それが間違いの元だった。
矜持の高い人間というのは、得てして見下される事に敏感なのだ。
なんだか悔しいですわ・・・。
ラーチェルは眉間に皺を寄せると、ぎゅうううっとレナックの足を思いっきり踏みつけた。
「痛ててててっ。ちょっと!何でいきなり足踏むんですか?」
踏まれた足を抱えてぴょんぴょん飛び跳ねるレナックに、ラーチェルはつんと顎を反らした。
「何となく、ですわ。さあ、ダンスの続きを致しますわよ」
「何でそうなるんすか。今はどう考えたって、そんな展開じゃないでしょうに・・・」
レナックは頭を抱える。
「ダンスの相手をしてもらうために探していたのですから、ダンスの続きをするのは当たり前ですわ。さあ」
腰に手を当てて続きを促すのは、さっきまで腕の中にいた儚げな少女ではなく、いつものラーチェルで、そのあまりの落差に、さっきまでの甘い雰囲気は、白昼夢なのではないかという気すらしてくる。
それでもラーチェルに強気に出られると、逆らえない自分がいて、レナックは唸り声を上げながら、不承不承手を差し出した。
満足げにラーチェルがそこに手を添えると、二人はまた踊り始める。
相変わらず天井天下唯我独尊。その思考回路は支離滅裂で理解不能だ。
でも、そんな所もかわいいと思えてしまうのだから、毒されてるよなぁと思う。
何でよりにもよって、こんな厄介な相手を好きになっちゃうかねー、俺。
心の中でそっとため息を漏らすと。
「何を呆けていますの。ステップが少し乱れていましてよ。よそ事など考えていては、このわたくしの練習相手など勤まりませんわ。集中なさい」
「はいはい」
こうして何の変哲もない廊下は、つかの間の恋の舞台から舞踏会場へと、再び姿を変えたのであった。
2005/04/13
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