||| 道しるべ |||



湯浴みを終えたヴァネッサは、新しい下着に手を伸ばしかけて苦笑をもらした。
「私、何期待してるんだろう・・・」
服を身につけながら、ヒーニアスの言葉を思い出す。


「そのコート、今夜返しに来るがいい」


なぜ昼間ではなく今夜なのか。
気がつくとそんな事を考えている自分に自嘲の笑みを浮かべる。
そう。そんな事があるはずはないのだから・・・。
きっと今夜という言葉に深い意味はないのだろう。
夜勤明けで仮眠を取る自分を慮ったのか、もしくはヒーニアス自身に用事があって、夜しか時間が取れなかったのか。
「きっとそれだけの事よ」
自分に言い聞かせるように呟くと、身繕いを終えたヴァネッサはコートを手に部屋を後にした。


場所は知ってはいたが、一度も尋ねる機会などなかった扉をノックする。
「入れ」
名を問う事もなく返った答えに驚きつつも、ヴァネッサはノブに手をかけた。
するとその手が僅かに震えている事に気付く。
ただコートを返しに行くだけなのだから、何も緊張する事などないというのに。
ヴァネッサは気持ちを静めるように軽く深呼吸すると、ノブにかけた手に力をこめた。


扉を開けると、室内に明かりは点いていなかった。
天井まである大きな窓から差し込む月の光だけが暗闇を切り取り、照らし出された窓の影がヴァネッサの足元まで伸びる。
「そんな所に立っていないで、中に入ったらどうだ」
一瞬呆けていたヴァネッサが慌てて声の主を探すと、ヒーニアスは窓にもたれて夜空を眺めていた。
「明かりをお付けにならないのですか?」
「今宵は満月だ。月を愛でるのに明かりをつけるなど無粋な事だろう」
傍らに歩み寄ったヴァネッサにそう言ったきり、ヒーニアスは黙って月を眺めている。
一人放置された感のあるヴァネッサは戸惑いを覚えた。
さっさとコートを置いて帰れということだろうか。
ヴァネッサは一抹の寂しさを感じたが、元々そのために来たのだから当たり前かもしれない。
「王子、コートをどうもありがとうございました」
思い直したヴァネッサが頭を下げると、ようやくヒーニアスがこちらに視線を向けた。
「今度からは備えを怠らぬ事だ」
そう言って、ヒーニアスはまた窓の外に視線を戻してしまうのだろうと思った。
だが、コートを受け取った彼の視線は、ヴァネッサに向けられたままで。
どきんとヴァネッサの心拍数が跳ね上がる。
逸らされない視線に縫い止められたように、身動きすら出来ない。
張り詰めるような沈黙の中、ヴァネッサの中で「まさか」という思いと、「やはり」という思いが交錯して、頭の中がパニックになる。
その時、ヒーニアスがすっと手を伸ばした。
ヴァネッサは反射的に眼を瞑って身をすくめる。


「やはりお前は不手際が多い」


「っ?」
幾分不機嫌そうなその声にヴァネッサが恐る恐る目を開けると、ヒーニアスは真面目な顔で、いつものように編み上げて背中に垂らしてある彼女の髪を引き寄せた。
「髪が濡れたままだ・・・」
そういえば色々思い悩んでいたせいで、あまりきちんと髪を乾かさなかったかもしれない。予想外の展開に呆然自失状態のヴァネッサは、上手く働かない頭で無感動にそんな事を思う。
「そこに座れ」
言われるままに傍のソファーに腰を下ろすと、張り詰めていたものが一気に解けた。
そして改めて自分の大それた勘違いに、顔から火が出る思いがする。
何を思い上がっていたのだろう。
自分のような者にヒーニアスが手をつける事など、あるはずがないではないか。
考えれば考えるほど自己嫌悪に陥って、ヴァネッサはヒーニアスの行動になどまったく注意がいっていなかった。
さらさらと三つ編みを解く気配に、ようやく我に帰る。
「王子!?」
「私が呼びつけたせいで風邪をひかれては叶わんからな」
ヒーニアスは髪を解き終わると、持って来たタオルでヴァネッサの髪を拭こうとする。
「そんな事自分でいたしますので」
ヴァネッサが慌てて辞退しようとするが、ヒーニアスは聞く気はないようだ。
「お前の言葉など当てにならん」
「ですが、王子にそんな事をしていただくわけには!」
「ヴァネッサ」
有無を言わせぬ口調で名を呼ばれ、ヴァネッサは仕方なくソファーに身を沈めた。


室内に髪を拭く衣擦れの音だけが響く。
「髪が痛んでいるな。きちんと手入れをしているのか」
「私は姉と違って器量が良くはありませんから」
暗に身なりにかまっても無駄なのだと告げるヴァネッサに、
「他人は他人、自分は自分でしかない。比べるなど意味のない事だ。そんな事をしている暇があるのなら、己を磨く努力をするほうがよほど有意義だとは思わないか」
いつもの淡々とした口調の中に、諭すようなニュアンスを含ませるヒーニアスに、ヴァネッサは視線を落とした。
確かにヒーニアスの言うことは正しいと思う。
でもそれはヒーニアスのように、優れている者だけが持てる感覚なのではないだろうか。
幼い頃から目の前に自分より優れた人間がいて、ずっと自らの劣勢を見せ付けられてきた人間には、それは眩しすぎて手の届かない感覚だった。
「野辺に咲く花でも凛と上を向いて咲いていれば美しく、いくら美しい花でも萎れていては誰も見向きはしまいな」
項垂れるヴァネッサに、ヒーニアスはそう呟いて隣室に消える。
呆れられてしまったのだろうか。
ヴァネッサが泣きたい気持ちでいると、程なくして姿を表したヒーニアスは、背後からヴァネッサの手を取った。
「これをおまえにやろう」
人差し指をすべる冷たい感触に、ヴァネッサが慌てて目をやると、そこにキラリと銀の指輪が光る。
「王子、こんな物頂けません!」
「気にするな。装飾品としては価値のない物だ。どうもおまえは自分を卑下しすぎるようだからな。自分に自信がなくなったら、それを見て私の言葉を思い出せ」
「王子・・・」
「さあ、そろそろ部屋に戻るがいい」
そう告げると、ヒーニアスはこれ以上のやり取りを拒む様に背を向けた。
ヴァネッサは指輪の光る手をもう片方の手で大切そうに包むと、扉へと向かった。
「ヴァネッサ・・・お前はこの私が認めた人間だという事を忘れるな」
背中に告げられた言葉に胸が詰まる。
ヴァネッサは扉の前で振り返ると、背を向けたまま月を見上げるヒーニアスに深々と頭を下げた。



ぱたりと扉の閉まり、足音が遠ざかるのを確認すると、ヒーニアスは窓辺を離れてソファーに投げ出したままのコートを手に取った。
すると、ふわりとヴァネッサの髪を解いた時と同じ香りが鼻腔をくすぐる。
「大した置き土産を残していってくれたものだ。・・・これでは袖を通すたび思い出すではないか」
呟くと、ヒーニアスは月を見上げて微笑んだ。



ヴァネッサは自室の扉を後ろ手に閉めると、扉に背を預けてそのままズルズルと座り込んだ。
正直どうやってここまで戻ってきたのかも記憶にない。
たった小一時間の出来事だというのに、あまりにも色々な事がありすぎて、ふわふわと雲の上を歩いているように、何もかもが覚束なかった。
そのうちに、なんだかすべて幻だったのではないかという気さえしてきて、ヴァネッサはそっと右手を覆い隠していた左手をどけてみる。
するとその下の人差し指には確かに光る指輪があって、あの出来事は幻ではないと伝えてくれる。
ヴァネッサはまるで空気に曝すと指輪が消えてしまうと言わんばかりに、再び左手で指輪のはまった手をぎゅっと握り締めた。


例えヒーニアスにとってはただの気まぐれだとしても。
この指輪とあの言葉があれば、きっと頭を上げて生きていける。
そんな気がした。




2005/01/05