||| ココロオドル |||
何度か扉をノックしてみる。
だが答えはない。
それはいつもの事なので、元々返事はあまり期待はしていない。
大きな屋敷だというのに常駐している使用人が一人もいない為、人が尋ねてきても奥の部屋にいると気付かないのだそうだ。
それだと何か大事な用件だった時に困るのではないかと尋ねると、
「世の中にそんなに急ぐ用事なんてものは、数えるほどしかありませんから」
そう言って笑う所が、いかにも彼らしい。
今日は休みだと言っていたので、答えはないが、たぶん居るのだろう。
案の定、ノブを回すと扉は簡単に開いてしまう。
少し無用心のようにも思えるが、賊が侵入した所で返り討ちに合うだけなのだから、心配は無用だ。
勝手知ったる何とやらで、エイリークは屋敷の中に足を踏み入れると、早速屋敷の主を探しにかかる。広い屋敷だけに部屋数は相当なものだが、彼のいる部屋はだいたい決まっているので、探すのにそう苦労はしない。
とりあえず最初に尋ねた部屋にはいなかったので、次の部屋を目指して歩いていると、扉が半開きになっている。
隙間からそっと中を覗き込むと、やはりそこにフォルデの姿があった。
ふわりと油絵の具独特の匂いが鼻をつく。
エイリークはキャンバスに向かう彼に声をかけようとして、途中で思案するように何度か瞬きすると、結局物言わぬまま口を閉ざす。
なんとなく、そこには割り込むべきではない神聖な空気・・・そんなものが漂っている気がしたのだ。
いつもは声をかけなくても、すぐにエイリークの訪れに気付くフォルデが、今日はまったくそれに気付かず、真剣な表情でキャンバスを見つめては、無心に筆を動かしている。
扉の隙間から、エイリークはそんな彼の横顔を見つめた。
思えば、こんな真剣な顔をして絵を描くフォルデを見るのは、初めてのような気がする。
フォルデが絵を描くのを横で眺めている事は良くあるが、そんな時の彼はとても楽しそうで、こんな風に声をかけるのも躊躇われるほど、真摯な顔をして絵を描く姿など、終ぞ見た事がない。
果たして、フォルデがこんな顔をして描く絵とはどんなものか。
ここからでは丁度キャンバスが垂直に近い向きの為、どんな絵なのかはわからない。
エイリークは興味を惹かれて、室内に足を踏み入れる。
すると随分と視野が変わり、絵の全貌が明らかになる。
そこにいたのは彼女だった。
ふわりと微笑むエイリークの肖像。
あの時交わした約束の証。
それを描いている事は知っていたが、暗黙の了解のように、完成してからの楽しみにと、今まで見ないように、見せないようにしてきた。
だが、今のフォルデの様子からすると、作業に没頭するあまり、エイリークが尋ねてくる可能性のある時間帯になった事すら、気付いていないのだろう。
ずっと大切に秘めていた事が紐解かれたのも知らぬまま、フォルデの意識は絵の中のエイリークに注がれている。それはエイリークの目から見れば、もう十分な完成度のように見えるのだが、フォルデからすればまだまだのようで、何度も筆を持ち替えては、細部を書き足していく。
真剣な眼差し。
注がれるのは私。
それを見つめるのも私。
いつもとは違う、彼の横顔。
エイリークは「あ・・・」と心の中で声を上げた。
胸の上で両手を重ねて、ぎゅっと握り締める。
胸がドキドキする・・・。
こんな事は初めてだった。
エイリークが戸惑うように瞼を伏せると、青玉の瞳に睫の影が落ちる。
フォルデの事はとても好きだし、自分たちは恋人同士でもある。
でも自分がフォルデに向ける気持ちは、物語に出てくるような、心臓が早鐘を打つとか嫉妬に狂うといった、激しい気持ちとは違うのだと思っていた。
もっと穏やかで温かなもの。
傍らにあることがとても自然で、それだけで満ち足りた気持ちになれる。
二つに割れていた石がピッタリと合わさるような、そんな充足感。
例え世間一般とは違っても、それが自分達の形だと思っていた。
なのに彼の新たな一面を見つけて、こんなにも心が躍る。
その音に耳を傾けているうちに、自分は今、とても嬉しいのだと気付く。
そういう新たな気持ちを発見できた事が、とても嬉しい。
戸惑いが笑みへと変わり、青玉の瞳に光が差す。
その視線の先で、フォルデは自分がもたらした変化など何も知らぬまま、作業へと没頭している。
すると、その時―――。
脇に置かれた絵の具や絵筆が雑然と並ぶ小卓の上から、絵筆が一本転がり落ちる。
余程集中していたのだろう。派手な音を立てて床に転がる絵筆に、フォルデは我に帰ったように何度か瞬きすると、緩慢な仕草で床に落ちた絵筆に視線を落とす。
しばらくそれを見つめて、ようやく目の前の映像と思考がつながったのか、絵筆を拾おうと手を伸ばしかけて、ふと何かに気付いたようにこちらに視線を向けた。
部屋の隅に立つエイリークを見つけて、フォルデは笑みを浮かべる。
「エイリーク様。いらしていたなら、声をかけてくださればよかったのに」
だが、エイリークは何も言わず、黙ってこちらを見つめている。
「・・・エイリーク様?」
ようやく彼女の様子がいつもと違う事に気付いたのか、不思議そうな顔をするフォルデに、エイリークは飛びつくように抱きついた。
普段抱きしめたり口付けを交わしたりする事もある訳が、それはいつも日溜りのように穏やかで自然な行為で、こんな風に衝動的に彼女から抱きついてくることなどないと言っていい。
いつもと違うエイリークに戸惑うフォルデは、言葉を捜すように視線をさ迷わせる。
「あの・・・絵の具、付きますよ」
頭を掻きながら、あーとかうーとか散々唸った挙句、出てきたのがこの台詞とは、我ながらなんとも間抜けで、思わず苦笑が漏れる。
「かまいません」
そんな彼を他所に、上機嫌にくすくすと笑うエイリークに、フォルデは少し困ったように、それでも嬉しそうな笑みをうかべた。
絵の具というのは一端付くと落とすのが大変で。
それでもこうして抱きつかれて嬉しくないわけがないのだから困ったものだ。
「何か、ありました?」
「・・・内緒です」
フォルデが様子を窺うように聞くと、エイリークは笑みを深めてぎゅっと抱きつく腕に力を込めた。
この様子からすると、別に嫌な事があったわけではないようだ。
ならばその理由を追求する必要もないだろう。
というか、エイリークはこう見えて意外と意思が強いのだ。
彼女が内緒と言うからには、聞いた所で教えてくれはしないだろう。
ならば余計な事に想いを馳せるよりも、フォルデはとりあえずこのしあわせの時間を楽しむ事にしたのだった。
2005/03/25
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