||| 誘いの歌声 |||
「参ったな・・・」
珍しく困惑したように呟いて、エフラムは辺りを見回した。
ラーチェルが庭園へ散策に出ていると聞いてやってきたのはいいが、こうして人を探してみて初めて実感する―――この城の庭園はかなり広いのだ、と。
普段、庭園を散策する趣味など持ち合わせていないから、そんな事などまったく念頭になく、せめて行きそうな場所ぐらい聞いてくるんだったと思っても後の祭り。
今更聞きに戻るのも面倒で、仕方なく宛てもなくさ迷っていると、そんなエフラムを笑うように、小さな歌声が耳元を掠めた。
それは聞き間違えるはずなどない、ラーチェルの声。
歌声はまるで彼女の元へと誘うように、風に乗って途切れ途切れに流れてくる。
その声を頼りに緑の庭園を進んでいったエフラムは、薔薇の蔦の絡まる東屋で、ようやく探し求めていたラーチェルの姿を見つけた。
ラーチェルは東屋のベンチに腰掛けて、ただ一人、楽しそうに歌を謡っていた。
桜色の唇が紡ぐのは、聖なる歌。神を讃える美しい調べ。
それは決して教会の聖歌隊のような洗練されたものではないが、純粋に神を敬い歌い上げるその様には、特別な美しさがあるのだと思う。
ふと、埒もない不安にかられて、エフラムが背後からその身体を抱きしめると、今まで美しい旋律を奏でていた唇から小さな悲鳴が漏れる。
「エフラム。なんですの、いきなり。びっくりするじゃありませんの」
ラーチェルは背後を振り返って、頬を膨らめた。
当然いつもの様に軽口が返ってくるのだと思っていたが、いつまでも肩口に顔を埋めたまま、黙って自分を抱き締めているエフラムに、ラーチェルは眼差しを緩めると不思議そうに目を瞬く。
「・・・どうか致しまして?」
「いや、あんまり綺麗な歌声だから、神の使いに連れ去られるのではないかと思ってな」
「まぁ、あなた意外とロマンチストですのね」
とてもエフラムの口から出たとは思えない言葉に、ラーチェルはさも可笑しそうに、だが慈しみを込めて笑う。
「でも、私の歌など、たいした事ありませんわ。専門に学んだ訳ではありませんもの。それよりもロストンの聖歌隊の歌声を聞いた事がありまして?大聖堂に響き渡る高く澄んだ歌声は、まるで天使の歌声ですわ。それこそ天使が舞い降りてくるのではないかと思うほどで・・・」
と、熱っぽく語っていたラーチェルは、何の反応も示さないエフラムに、再び不機嫌そうに顔を顰めた。
「ちょっと、エフラム。人の話を聞いていますの?まさか寝ているんじゃありませんわよね?」
「聞いているさ。・・・ラーチェルの声をな」
「・・・・・・本当に困った人ですわね」
堂々と話など聞いていなかったと言ってのけるエフラムに、ラーチェルは盛大なため息を漏らした。それでもこういう反応には、いい加減慣れてしまっている。
剥きになって怒るだけ無駄だという事も。
「そんなにわたくしの声が聞きたいのなら、子守唄でも歌って差し上げましょうか」
半分揶揄を込めてそう口にしたのだが、エフラムはその案が気に入った様で、「それはいいな」と呟いて、早速ラーチェルの膝を枕に横になる。
ラーチェルは自分の膝に機嫌良く収まったエフラムの顔を、驚きと呆れの入り混じった表情で見ていたが、やがて笑みを浮かべて目を瞑ると、すっと息を吸い込んだ。
そうしてラーチェルが歌い始めたのは、ルネスに古くから伝わる子守唄だった。
きっと、そのうち生まれ来る我が子に聞かせる為に、城の者から習ったのだろう。
エフラムはゆっくりと目を閉じると、懐かしいその歌に耳を傾ける。
すると、不意に感じる既視感。
何故だろうと思っていると、歌声に誘われるように記憶の端で何かが揺らめいた。
それは手の届きそうな位置にあるいうのに、掴もうとしてもなかなか掴めない。
散々苦心して、思わせぶりに揺らめくそれの端を、ようやく捕まえる。
途端にエフラムは深いため息を漏らした。
脳裏によみがえるセピア色の記憶。
やさしい笑顔。慈しむ眼差し。包み込むような柔らかい歌声・・・。
大地に雨水が染み込む様に、思い出が心に染みていく。
まだ母が生きていた遠い昔、ここでこうして母の膝枕で子守唄を聞いたのだ―――ずっと記憶の中に埋もれていた思い出を、そっと心で抱き締める。
忘れ去っていた大切な宝物へと、ラーチェルの歌声が導いてくれた。
やっぱり天使の歌声とやらよりラーチェルの歌声の方がすごいなとエフラムは笑みを漏らして、懐かしい思い出の中へと心を浸していった。
「エフラム・・・?まぁ、眠ってしまいましたの。せっかく私の声が聞きたいというから、歌ってあげましたのに」
早々に心地よさそうな寝息を漏らし始めたエフラムの顔を、ラーチェルは拗ねたような顔をして見下ろす。鼻でも摘まんでやろうかと思ったが、その幸せそうな表情を見ているうちに、ラーチェルはふっと表情を和らげた。
「でも・・・子守唄というのは幸せな眠りへと誘うためのものなのですから、これでいいのかもしれませんわね」
そう言って微笑むと、気を取り直したように再び子守唄を謡い始める。
その幸せな眠りを護るように。
2005/06/03
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