||| 夜と昼の間 |||



冷たい空気が凛と音を立てそうなほど張り詰めている。
「さむ・・・」
城壁の上で夜営に立っていたヴァネッサは、身震いして凍える手を刷り合わせた。
一日のうちで夜明け前のこの時間が一番冷え込む。
ヴァネッサは空気が澄み渡るこの時間が好きだったが、さすがに今日の冷え込みは身に堪えた。
この時期の冷え込みを甘く見て、厚着をせずに夜の見張りに立ってしまった自分を恨んだが、今更どうしようもない。
先ほど巡回に出たシレーネが戻ったら上着を取りに戻ろうかとも思ったが、もう東の空は僅かに白み始めている。
間もなく日が昇る。そうすれば少しは気温も上がるだろう。
そう思って耐えていると、震える肩にふわりと暖かいものがかけられる。
誰かが隣に立つ気配に顔を向けると、ヒーニアスがそこに立っていた。
「ヒーニアス王子・・・」
彼は城壁の手摺り寄りかかると、遠くを見つめる。
「こんな時間にどうして・・・」
「あぁ。今朝は早くに目が覚めてしまってな。・・・ところでヴァネッサ」
「はい」
「そんな薄着で晩秋の夜営に立つなど、不手際もいいところだ」
自分でも反省していた点を指摘されて、ヴァネッサは項垂れる。
「申し訳ありません。ですがこんな事をされては、王子こそお寒いのでは」
ヴァネッサがコートを返そうとすると、遠くを見つめていたヒーニアスのアイスブルーの瞳が彼女を捕らえる。
「言ったろう、ヴァネッサ。私にはお前を守る責務があると」
「王子・・・」
冷たい熱をもった瞳に見つめられて、ヴァネッサの背筋がぞくりと震える。それに耐えるようにコートの前を掻き合わせると、不意にヒーニアスが視線を遠くに向けた。
「夜が明けるな」
ヴァネッサがヒーニアスの視線を追うと、稜線の向こうから夜の帳を押しのけて朝日が顔を覗かせている。
夜明けの陽の光は昼間とは違い、まどろむ赤子を抱く抱く母の手のようにやさしい。
「美しい・・・」
「はい」
「・・・こうも美しいと、射落として我が物にしたくなるな」
ヒーニアスは身を起こすと、すっと弓を引く仕草をしてみせる。
凛と澄んだ空気の中、一点を見つめたまま幻の弓を引くヒーニアスの姿に、ヴァネッサはキリリと弦のしなる音さえ聞こえるような気がする。
張り詰めた静寂の中、自らの息遣いさえもそれを壊してしまう気がして、ヴァネッサは息を殺した。
長いようで短い緊張の末、不意にヒーニアスの指が矢を放つ。
ヴァネッサは確かに幻の矢が冷たい空気を切り裂き、朝日へ向かって飛んでいくのを見た気がした。
一瞬、本当に太陽が落ちるのではないかと思う。
それぐらい、ヒーニアスの一連の所作はリアリティーを持っていた。
しかし、さすがにそんな事があるはずはなく、太陽は夜の闇を払うように徐々に高度を上げていく。
「さすがの私でも太陽ばかりは射落とせんな」
ふっとヒーニアスが笑みをもらした。
その瞬間張りつめていた夜の空気が、暖かな夜明けを迎える。
「わ、私は本当に太陽が落ちてくるかと・・・」
何時の間にかほとんど息を止めていたヴァネッサが息を切らしながら言うと、ヒーニアスが珍しく自然に口元を緩めた。
初めて見るヒーニアスの本当の笑顔に、ヴァネッサはきちんと息をしているはずなのに息苦しさを感じる。先ほどまで凍えていたはずなのに、今は体が熱い。
「・・・あぁ。太陽は射落とせなかったが、もっと価値のあるものを射落とせたようだ」
「それは・・・」
「さて、私はもう一度眠るとしよう」
彼女の台詞を遮るように言って、ヒーニアスは背を向けて歩き出す。
ヴァネッサがその後姿を切なく見送っていると、城壁を下りる階段の手前でヒーニアスが不意に足を止めた。
「ヴァネッサ」
「はい」
「そのコート、今夜返しに来るがいい」
ヴァネッサが答える前に、ヒーニアスの後姿は今度こそ階段へと消える。
「王子・・・」
ヴァネッサはヒーニアスの香りの残るコートをぎゅっと抱きしめた。




<お題3 寒さに震える肩>

2004/12/22